背中

冴子は走っていた。

郊外の住宅地へ向かう地下鉄の最終を目指して、走った。
ホテルの宿泊代より高いタクシー代を考えると、自然とスピードが上がる。

思えば、夫の反対を押し切ってまで手に入れた家だったが、都心との距離への不満は日ごとに膨れ上がり、同時に夫との距離へと姿を変えていった。

そして独りになった今、それが途方もないへだたりだったことに気づいていた。

改札を抜けると同時に地下鉄がホームに滑り込む音が聞こえてきた。

いつもの冴子なら階段を駆け下りるのだが、今夜は営業仕様のタイトなミニとパンプスが足を引っ張っている。

それでも、残りの階段を何とか駆け下り辛うじて乗り込んだ。

酔客の放つすえた匂いが鼻を突く。

冴子は思わず顔をしかめ、視線を泳がせる。

その先に懐かしい背中があった。

彼の背中。

それがすぐに判った。

今日を終えた安堵感と疲労から誰もが弛緩している中で、その背中だけは、あの頃と同じく凛としていたからだ。

冴子は、一年にも満たない隔たりを、すでに懐かしいと感じてしまう自分に驚いた。

そして、いつも自分が寄り添っていた場所に目を凝らし、誰もいないことに安堵した。

『未練?』

唐突に浮かびあがった言葉。

彼に張り付かせていた視線を慌てて目の前の窓へ移す。

そこには、周りと同じように精気の失せた三十路の自分が見つめ返していた。

ふたりの生活が終わった理由は何だったのだろうと考えてみても、冴子にはいまだ答えらしきものを出せないでいる。

ただ、氷が溶け水に戻るような別れの中、間際になって彼が投げかけてきた言葉だけが、凍ったまま、今も冴子の深い部分を冷やし続けていた。

「ぼくが大切に思うことを冴子は大切に思えないだろう?」
「あなたにとって大切なもの?」
「夢さ」
「じゃぁ、わたしの大切なものって?」
「現実かな。。。」

そして、彼と引き換えに手に入れた現実。

今の仕事に打ち込める環境。
何の制約も無い時間。
生き甲斐といえるものを仕事にできた充実感。

それから?

冴子の自問自答が続く。

喜び?収入?地位?安らぎ?

悲しいほどの自由。

浮かんだ言葉をうち消そうとしたが、夥しい針で突かれた痛みが冴子の身体を駆けめぐった。

ふいに、見つめられていることに気づいた。

向けられた視線をゆっくりと辿っていった先に、彼の柔らかな微笑みがあった。

あのころと変わらない包み込むような暖かさで見つめている。

その暖かさを、今は素直に感じることができた。

『同じ微笑を返しさえすればいいのよ。彼の優しさは変わるはずないのだから。
あとは、わたしが変わればいいだけ。あの頃のように。。。』

その思いを打ち消すように浮かび上がってきたのは、あのころの苦い想い出だった。

『人生は振り返ることは出来ても、やり直しはできないのよ』

冴子は湧きでる思いを押さえ付けるように自分に言いきかせ、今しがた営業で使ったばかりの微笑みを張り付けた顔を彼に向けた。

彼の笑顔が瞬く間に消え、淋しさを含んだ視線だけが残った。

冴子のまわりから光と音が遠ざかっていく。

それに絶えきれなくなった冴子は、開いた扉から見知らぬ駅へ逃げるように降りた。

すぐに扉が閉まる。地下鉄がゆっくりと動き出す。

冴子が振り返った先から彼の眼差しも遠ざかっていった。

『電車を乗り継ぐように、人生も乗り継げたら。。。』

その思いと共に込み上げくる寂寥感の中で、冴子は見知らぬ駅のタクシー乗り場を探し始めた。

Haru
Haru

これはフィクションで、my Styleのお客様とは関係ありません。。。たぶん

コメント