
人生を道に準えて語られることがある。
それが、太くて真っ直ぐな道ならば、何も考えることなく突き進めば良い訳だが、そんな恵まれた道など、そうそうあるものではない。
ほとんどの人は、細く曲がりくねった道で、計り知れないほど多くの分岐点に出くわし、思い悩みながら、自分の進むべき道を選んでいる。
そして、その分岐点にもさまざまな形がある。
それが【T字路】だったら右か左か、それが【十字路】だったなら、右か左か、はたまた真っ直ぐ突き進むべきか悩むことだろう。
しかし、それが【Y字路】だったならどうだろう?
案外すんなりと進んでしまうのではないだろうか。
私はそうだった。
はっきりとした道筋の決断を迫られる【T字路】や【十字路】に比べ【Y字路】のそれは些細な決断で済む。
否、決断などというより、ただ何となく道なり進んでしまうと言ったほうがよい。
しかし、歩きはじめは変わり映えしなかった風景が徐々に様変わりし、たがて歩いている道も、それまでとはかけ離れた方向を向いていることに気づくことになる。
それが【Y字路】の怖さなのだ。
人生の道筋が整然と作られていないことは自明の理である。
どこをどう歩けば、目差す場所へ行きつけるのかを判断することなど至難の業で、思いがけない道が思いがけない道に続いたり、一度分かれたら最後、決してめぐり逢わない道もあるのだ。
数年前、私はある道を歩きはじめたとき、小さな忘れ物をしてしまったような狼狽を覚えて立ち止まりそうになったことがある。
そこで少しだけ振り返ってみて、それまでの私は、鳥は鳥、木は木、ただそれだけのものとしか見ていなかったことに気づいた。
同時に、それぞれに固有の名前があるならば、同じ数だけの生き方があることにも気づいたとき、その狼狽は消えうせていた。
今歩いている道の行く末を推し量る術などある筈もないが、このとき感じた刹那を糧に、歩き続けることにしている。
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