勘違いの力

誰でも、一つや二つの勘違いをしてしまった経験はあるだろう。

世間知らずな時期には、特に多いのではないだろうか。

私のそれは、やはり酒場でだった。

5人掛けのカウンターとボックスが1席のこじんまりとした、当時としては古風な造りのその店。

当時の括りで言えばスナックに、ほとんど毎日のように通いつめていた時期があったのだ。

この頃では珍しく、BGMが私好みのJazzだったこともあるが、この店のママに、ちょっとした恋心をもっていたのが大きな理由だった。

とは言え、当時の私から見れば母親とまではいかないまでも、かなりの歳の開きがあったように思う。

今にして思えば、彼女は常連客の一人として、世間知らずの若造に接していただけなのだろう。

しかし、その世間知らずの若造ゆえ、私はすっかり舞い上がってしまい、せっせと通いつめていた。

当時はコーヒーが100円の時代である。

ウィスキー(サントリー・ホワイト)のシングルは300円だった。

定職につかずアルバイトで暮らしていた私が、一度に飲めるのは3杯が限度である。

それで4時間以上も居座っていた。

ママの方も知ってか知らずか、作りすぎたからといって他の客に作った肴をまわしてくれたりするので、私としてはますます入れ込むことになる。

厄介なことに、ここにあと一人が加わるのである。

決して自慢する訳ではないが、カウンターの中にいたアルバイト嬢が、こんな私のことを少なからず思っていてくれたらしのだ。

ママの目を盗んでは、ハウス・ボトルのウィスキーをコポコポ注いでくれたり、伝票を故意に付け忘れたりしてくれるのだ。

しかし、当の私はママにゾッコン。

ママは常連客を逃すまいとサービス。

私はそれを勘違いしてせっせと通う。

アルバイト嬢は、私の気を引こうとウィスキーをコポコポ。

つまりは、三者三様の勘違いが交錯していた訳である。

世間の出来事、特に男女の間では、この勘違いが原動力となって回っている部分が多いのではないだろうか。

そして、厄介なことに、当人はそのことに気づいていないことの方が多い。

ともあれ、大切なのは、勘違いに気づいたときの身の施しようなのだろう。

自分自信で納得のいく答えを出すことが出来さえすればよいのである。

私といえば、1年ほど通い詰めた挙句、その答えを出すことができた。

その後、5年ほどしてから当時の場所を訪れる機会があったが、くだんの店があったとおぼしき場所にはビルが立ち並び、すっかり様変わりしてしまっていた。

今となっては懐かしい想い出でしかない。

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