水を飲むように愛したい

水

これはある商品のキャッチコピーである。

相方と出逢って間もなくの頃、私はこの言葉と出逢い、目を開かれる思いをした。

以来、座右の銘とまではゆかなくとも、相方と接するときの指針になっている。

予てより、私は自然体で生きることを心がけてきたし、それは今も続いている。

正直、様々なわずらわしさから逃れるための言い訳から、それを始めたようなものだ。

しかし、徐々にではあるが、この生き方が身に付きだしてからというもの、物事の確信やら真実とやらを見通せるようになったように思う。

憶測や打算などを取り除いた無垢むくな視線で見つめてみると、それまで隠されていた事柄が見えてくるものだ。

とは言え、それが容易たやすくできることでないのを身にしみて感じているのも現実である。

私には迷っていた時期があった。

相方にどう接していいか判らなくなっていた頃である。

暗中模索を繰り返すうち疑心暗鬼に陥り自分を見失っていたように思う。

そんなとき、何かの雑誌の広告で目にしたのがこの言葉なのだ。

【水を飲むように愛したい】

雑誌の名も商品名も広告のレイアウトすら思い出せないが、淡いブルーをバックに女性の姿とこの言葉が記されていたことだけは覚えている。

それは、まさしく晴天の霹靂。

迷いが氷解していくのが判ったのである。

思えばそうなのだ。

人間、水を飲まなければ生きてはいけない。

更に突き詰めれば、呼吸をしなければ死んでしまう。

それは、もっとも自然な行為であるし、それと同じ次元で人を愛すことができれば悩むことなどないのである。

空気や水のような存在といえば、人によって受ける印象は様々である。

どうでもいい存在と受けとられるかも知れない。

しかし、それでもいいと思えるようになった。

水も空気もその人が必要としなくなるまでは確実に存在するものである。

ある日突然、無くなってしまったと悲しませるより、最後まで気づかれなくても、欠くことのできない存在であり続けられるのであれば、それに勝るものはないだろう。

そのことに気づかされたのである。

以来、そのように接しようと努力をしてきた。

まっ、時折、胸を張り声高に主張を繰り返すことがあるのでは、まだまだ “水を飲むように。。。” の域までは程遠いのが現実である。

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